春風の香りが鼻をかすめていった。
風に舞う、桜の花びらはとても小さく儚かった。

横断歩道の向こう側には何人か人が居た。
携帯をいじる若者も居れば、忙しそうに電話をするサラリーマンも居た。
小さな杖を持った老人がおぼつかない足で立っていたので、思わず声を掛けて助けてあげたい衝動に駆られたが
視線をなるべく逸らして、見ないようにした。

ピーピーと軽快な電子音がスクランブル交差点に響き渡った。
それと同時にわらわらと人が動き出した。
その波につられて自分も足を動かして、突き進んだ。
様々な人とすれ違う。
それは、若者であったり。
サラリーマンであったり。
そしてあの老人も居た。

全ての人間が、それぞれ自分の道を歩いていた。
あたしは―――
不意な問いかけが虚しくなった。
考えたって、しょうがないじゃないか。
あたしは、あたしだ。

完全に横断歩道を渡りきると同時に、電子音は鳴り止んだ。
ゴオオという音を立てて、一斉に車が走り出した。
そして振り向いた。
別に過去に未練があるわけでもないのだが。
走り行く車の向こうに、もうあの老人の姿は見えなかった。









     









春だ。
春が来たのだ。

進級したせいか、気持ちが高ぶっていた。
いつもと変わらない、平坦な通学路を歩く足取りも、心なしか軽くなる。
ついには、フンフンと鼻歌まで歌っていた。


高野英士と名のつく彼は、今年の春、高校2年になった。
都内の公立高校の中でも、そこそこのレベルの、「文武両道」と目標に掲げる学校だった。
その校訓の通り、英士は校内でも注目されるサッカー部のエース的ポジションに居た。
別に彼は、サッカーが特別好きなわけではない。
高校に入って、誘われたから入ったまでのことだったし、中学時代は野球部だった。

中学時代、短く刈り込んでいた髪は一年で随分と長く伸び、今ではやや長い柔らかい髪を伸ばし放題にしていた。
その髪型を気に入っているわけでもなく、整えるのが面倒だからという理由で放っておいているまでだ。
母親に似ている端整な顔立ちも、父親譲りの長身も、人の目を引くには十分だった。
学校でも有数の「マシ」な部類な男子の中でも、特に英士は一目置かれていた。
今までも、何人かの女子に思いを寄せられてはいたものの、1・2回のデートでそれっきりというパターンが多く、
今のところ彼女は居なかった。
周りが「彼女が欲しい」と騒ぎ散らす中、英士はその波に乗らなかった。
興味が無いわけではないが、なかなか高望みが過ぎるのか、理想の相手が見つからないのだ。

英士にとって、付き合うだとか恋だとかはその程度のものだった。
別に、無くては居ても立ってもいられない!だとか、そんなものではない。
好きな人ができたときでいい。
別に今はいらない。
そんなものなのだ。



登校初日は、朝早々に全校集会、あとはつまらないガイダンス。
毎年それが決まり物なのだろう、飽き飽きとした生徒の面々。
英士は、1年の頃よりも一階上の新しい教室に軽い足取りで入っていった。
黒板には白いチョークで大きな文字で「新2B・いえー」と描かれていて、うっかり口元が緩んだ。
教室の真ん中当たりの、自分の新しい空っぽの机の上に鞄を下すと何故か落ち着いた。
そこが自分の新しい居場所であるかのように。

「高野ぉ」
ふと後方で声が聞こえて、振り返るとそこには、守宮大輔の姿があった。
1年の頃から、顔なじみの彼は健康的なそのニッコリとした笑みで「おは」と口を動かした。
人懐っこい笑みを浮かべる大輔は、1年の頃はクラスが違かったものの、部活が一緒だったのだ。
典型的なサッカー少年の彼は、休日に頻繁に英士を練習に引きずっていったりもした。
仲が特別良かったわけではないが、なんとなく一緒に居ることが多かった。
英士はそうは思ってなくても、少なくとも大輔は好意を寄せてくれていたのであろう。

英士は視線を再び机の方にやった。
そして、コクリと小さく頷いて鞄を椅子の背に掛けなおした。
「うわぁウルッセーのが来たぁ」
ニヤニヤした笑みでそう言うと、大輔はクシャっとしたその独特の笑みを向けた。
「ひっでぇ」
大輔は笑顔だった。
そして馴れ馴れしく、腕を英士の肩に絡ませて思いっきり体重を掛けた。
ブランと右足を揺らしながら、なんとなく口を動かした。

「知ってる?なんか転入生来るんだぁーってさ」
「は?転入生?」
首をかしげて言うと、コクリと大輔は頷いた。
「男?女?」
そう早口で言った後に、英士はたっぷりフザけを込めた笑みで「カマ?」と付け足した。
「そーだったら俺泣いちゃう」と相変わらず笑顔の大輔は、そっと肩から腕を下し、英士から体を離した。

そして腕を後ろで組んで、体をよじらせた。
丁度そうだ、昨日夕方に見た「タッチ」の再放送でヒロインの南ちゃんのやっていたポーズと似ていた。
”もーお、南知らないぞ”と言って、道端の石を蹴飛ばしそうなそのポーズは、少し可愛かった。
予想に反して大輔はクルリと一回転してこちらに笑顔を向けた。
「知ーらないっ。あ、でもC組の相川情報じゃぁブタゴリラみたいな大男だぁってさ」
「マジかよ」
ハハッと皮肉を込めた笑みを送ると、大輔はご機嫌で頷いた。

新学年の新クラス早々の転入生。
よくあるパターンだ。
大体、この時期に転入してくる奴といえば”親の都合”と理由を撒き散らして、最終的には不良のレッテルを貼られ
不登校という、有り勝ちなストーリーだった。
そういえば、去年の春転入してきた奴はどうなったっけ?
あいつも確か数ヶ月で、不良の連中とつるむようになって・・・、ああ。そうだ。山野だ。
山野は確か、結構前に停学処分をくらって以来、あんま学校で見ないよなぁ。

「女だといいなぁ」
「・・・女?」
「うン」
コクリと大輔は頷いた。
「なんで?」
「なんでって・・・」
大輔はボソボソと言うと、こちらをチラリと見た。
そしてパチパチと瞬きをしながら、唇を動かした。
「だって、俺だって男だよ?彼女の一人くらい欲しいっしょ。ねぇ?
彼女でも居ないと、俺ホモだと思われちゃう。嫌っしょ?後輩とかにさぁ、”守宮先輩と高野先輩はホモ!”
なんて言われたらさーあ」
「なんで俺?」
「いっつも一緒に居るから」

そう言われて数秒止まった。
確かに、ホモだと思われるのは嫌だ。

「じゃぁ・・・、女だといいなぁ」
「それも可愛い子がいいね、ほらあれみたいな、胸デカいコ。『ほしのあき』?みたいなさーあ」
「ばぁろう。『ほしのあき』ってもうかなり歳じゃん。俺らより10コ上くらい」
「え?マジで?もっと若いかと思ってた。二十歳くらい」
大輔は目を丸くして、驚いた顔をしていた。
そういえば、大輔の家にはそういった写真集だとかは無かった。
音楽の雑誌とサッカーマガジンが散らかっていただけ。
そう思えば、そうか。ホモだと思えば一切のギモンは無くなるわけだ。
でもそれじゃぁあまりにも大輔が理不尽なのだな。
大輔は単に、そう。
シャイなのだ。
明るい性格の反面、女には奥手なのだ。

大輔はコロコロと変わる表情で、昨日のサッカーの試合中継のことを話した。
あそこでもう1点入れられたはずなのにさ、アイツがもっと動かねぇからさぁ。
大輔のよく通る声が響いた。
英士としては、特にそこまで好きなわけでもないサッカーの中継など暇なときしか見ない。
かといって、野球の中継も見ない。


「高野くん、高野くん」
呼ばれて、耳半分で振り返ると後ろに女子が数人立っていた。
その中で一人見覚えのある女子が居て、そのコに声を掛けられたようだった。
「またクラス同じだねーえ。よろしく」
「うん、よろしく」
そう言うと、後ろに居た女子が軽く「きゃ」と声を上げた。
それと同時に笑いが起きる。
「あのさーあ、このこっちも一緒のクラスなんだよねーえ。結構高野くんのことカッコイイーって感じでさぁ」
「えーちょっとやだ、サチ言わないでよぉ」
コソコソと女子内の話し合いが行われていた。
非常にこういうのは絡み憎いのだ。
ふと、視線を戻すと、大輔がつまらなそうな顔で女子軍を眺めていた。
そうやら、その中に大輔の好みは居ないようだった。

「それでねーえ、あの。今日良かったら、クラスみんなでカラオケかなんか行かない?って思ってぇ」
そう言うと、後ろのコに同意を求めるかのように「ねっ?」と声を発した。
「えっと、あー・・・」
チラリと大輔の方を見やると、大輔は曖昧な表情で首を傾げていた。
英士は大輔に「どうする?後任せていい?」と視線を送ると、大輔はそのテレパシーを感じ取ったのか、
首をかしげ眉を寄せたまま、苦々しい表情で女子たちに話しかけた。

「何?それって、クラス全員参加?」
「えーっと、別に。行きたい人だけっていうか。あ、でもなるべくみんなで親睦深めようみたいなぁ」
うんうんと、数人の女子が頷いた。
「じゃぁどーするよぉ、英士くーん?」
「どうしましょうか、大輔くん」
イヤミ半分冗談半分で、時々こうやって名前で呼んでみる。
そういえば、なんで苗字で呼び合ってるんだ?

「できれば、来て欲しいなぁ、ねっ?みんなで盛り上がろうよー」
「うーん」
英士は悩んでるふりをした。
本当のところ、そういった席はあまり好まないのだ。
普段は嫌でも明るい会好きのキャラを被ってはいるものの、みんなで騒ぐといった行為そのものが
あまり好まないのだと、この歳になって実感した。

「じゃぁ」
大輔が声を張り上げた。
人差し指を立てて、いや、古いジェスチャーだなぁ、おい。
「楽しそーぉだったら行く!暇だったら顔出すよ、ねー?英士くん?」
「暇だったらねぇ」
そう言ってから、チラリと女子の反応を伺った。
女子は予想通り「えー、絶対来てねぇ」と、黄色い声で言った。
喉のどこから出ているのだか分からないその声が、英士は大嫌いだった。

「高野くん高野くん、来てね、絶対だよ、ぜぇーったい!」
「はいはい」
ブンブンと手を振り回す女子に片手で手を振ると、「キャ」と後ろの女子が再び奇声を上げた。


女子が居なくなって、静まり返った教室の中で、大輔がいそいそとこちらに近寄ってきた。
「モテるねーぇ、高野は。一人くらい分けてよ」
「馬鹿言えよ。あんなよく分かんねーえ女子に好かれたって嬉かねぇよ」
髪をガシガシと掻きまわしながら言った。

英士はモテる、と言われれば思い当たる節がいくつかはあった。
顔はまぁまぁで背が高くて、サッカー部のエースであるならば、誰だってそうなのだろう。
特に性格がいいわけでも、喋り上手なわけでもないのだ。
要するに、運が良かっただけなのだ。
一歩違えば、クラスで隅でポツリと座るタイプに成りかねないと、本人も自覚していた。

横を見ると、大輔は遠のいていった女子たちを背伸びをして眺めていた。
「おー、ブースブース」と言わんばかりの尖がった唇で鼻唄を歌っていた。
大輔は決してモテないような顔ではないのだ。
身長だって、英士よりは多少低いだろうが、170以上はあるだろうし。
大きい二重の目が特徴的で、それに英士の数倍は明るい笑顔とよく動く口を持っている。
普通ならば、誰もが大輔の方に目をやるだろうが、いつも目がいくのは英士なのだ。
それもそれで、大輔が不運だっただけなのだ。




世の中には、正当で真っ白なことなんて何もなくて
確実なことなんて、何一つない
全ての事柄において、100%なんて存在しない
偶然とマグレとハッタリの混ぜ合わせた世界がここにはある

世の中なんて、そんなもんさ





「ほら、来た」
大輔が耳元て小さく囁いたのが聞こえた。
前方を見ると、教壇のところに、新しく担任になった教師が立っていた。
そして、「席着け」と声を張り上げていた。
すぐに、近くの自分の席に腰を下して、静かに担任の話しを聞いた。

どうでもいい世間話から始まった。
新担任は白髪交じりの初老の男で、そこそこベテランと言われる部類だった。
生徒からの評判はそこそこ普通で、逆に言えば居ても居なくてもどっちでも、なんていう存在だった。

「それでなぁ、今日は新しくこの学校に来たなぁ、転入生が居るんだけど」
そう言うと、教室の片隅で「ピュー」と口笛を吹く音が聞こえた。
「こらぁ五月蠅いぞ、おいそこ。ほら、えっと。入ってきなさい、椎名ぁ」
そう、教師が声を上げると突然、教室の前のドアがガラガラと音を立てて開いた。
コツコツと上履きを鳴らして歩いてくる、女の姿が見えた。

女だった。
ブタゴリラみたいな大男じゃなくて、背の高い女だった。
見たところ、そこそこキレイな顔をしていて、細長い手足は白かった。
細い、というよりは「ガリガリ」な体型をしていて、色っぽくはなかった。
健康的そうな体ではない。

「ほら、椎名。自己紹介」
そう教師が言うと、女は「はい」と小さく言った。
低くて小さい声だった。
「椎名寛子。京都から来ました。よろしくお願いします」
椎名寛子と名乗ったその女は、律儀にお辞儀をした。
長い髪がサラサラと揺れた。
自己紹介はそれだけだった。

教師は「えーっと」と声を漏らした後で、頭をボリボリ掻いた。
「席ねーなぁ、ああ、あった。そういやぁ今日は休みだったなぁ、柴田。まぁいいや。椎名、あの真ん中の
高野、高野だよなぁ?高野の隣の席、分かるか?高野手ぇ挙げて」
そう言われたので、しぶしぶ右手を挙げた。
そういえば、隣は今日は休みだった。
椎名寛子は無言で、その席まで歩いていった。
そして機械的な動作で椅子を引いて、腰を下した。
机が合っていないのか、座りにくそうだったが気にする様子はまるでなかった。

―――嫌な女。

女ってのは、嘘でも嫌でも愛想振りまいて、どうでもいいことでキャーキャー言っときゃいいんだよ。
だなんてことは、言いはしないが、少なくとももう少し笑顔を作るとかそういうことはできないのか?

隣の椎名寛子を睨みつけるようにして見つめた。
髪がサラサラで長かった。
首を動かすごとにサラサラと動く。
シャンプーのCMのようだった。

「ねえ」
椎名寛子が口を開いた。
またも、小さく低い声だった。
まったく可愛げがない。

「教科書無いの。一緒に見せてくれない?」
「・・・」

椎名寛子はサラリと髪を揺らして、こちらを見て微かに目を細めた。
それだけで、笑いはしなかった。

まったく、本当に愛想がない。


英士は鞄から、一時限目の授業の教科書を引っ張り出すと机の上に乱暴に投げやった。
そのバンっという、叩きつける音にも、椎名寛子は反応しなかった。
その、ボンヤリとした瞳で机の上を見つめていた。



まったく、可愛げがない。










SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送